002 : 東京24区Ⅱ-花言-

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2nd order. 『He loves me.』

新書版/268ページ/価格:1,000円/発行日:2017年11月23日/読み切り

◆あらすじ◆
東京24区・秋葉の幼馴染である、警視庁刑事部捜査一課所属・二宮高貴巡査部長がとある女性に恋をした。彼女の名は、藤井十和子。
二宮の恋を応援すべく十和子の店を訪れる秋葉たちの前に、ひとりの男が現れた。
警察庁広域重要指定925号、本名をマルコ・タテワキ。
タテワキには共犯者の噂があるも、その姿を掴めず翻弄されてしまう。
男の共犯者は誰なのか、そして二宮の恋は実るのか。
オリジナルBL小説、第二弾です。


 篠突く雨が深夜に近い街を覆った。
 一時はおさまりかけた雨粒が、再び強く煌めくネオンを掻き消そうとしているようにも見えた。まばらだった人々の姿も、今やもう殆ど見ることはない。ぽつりぽつりと灯る店先の明かりの中に、皆姿を消しているのだろう。その証拠に、厚い壁を通して篭った笑い声があちらこちらから、雨音に負けじと漏れ出しているのだから。
 黒いアスファルトの地面に雨が強く叩きつけられ、水たまりを幾つも作っていた。そこへさらに降りかかり、いつしか道路の左右へ川のように流れ出した。側溝を伝い、下水管へと溢れた雨が流れて行く。しかしこの雨量に排水が追いついていないのか、ごうごうと音を立て排水を待つ雨水がしぶきを上げていた。
 ただでさえ平日の半ばでひとの通りが少ない街で、この雨とくれば、閑散としても仕方のないことだろう。いくらここが都内屈指の繁華街だとしても、飲んで帰るのは週末までお預けと判断しても可笑しくはない。その頃には雨も落ち着いてくれることを祈って。
 そんな人々の意思は全く意に介さないとばかりに、ひとりの女の姿があった。客引きの姿もほとんど見えない、雨に滲む景色の中で女の赤い傘はその存在を際立たせていた。時折気まぐれに掛けられる客引きの声をあっさりと無視し、女は真っ直ぐに足を進めた。水たまりを踏み、ハイヒールにしぶきが飛ぶも、気にする様子はない。アスファルトの至る所に出来あがった水たまりを避けて歩くにも困難な状況で、気にする方が無理と言うものか。
 女は慣れた足取りで周りを確認する様子もなく、とある雑居ビルへと進んだ。益々雨足は強まり、足音すらも傘にぶつかる雨音にかき消された。
 そのビルの入り口は開け放たれていた。入口の片隅に灰皿が置かれていた。何気なくそれを覗き込むと、一本の吸い殻が揉み消されていた。もう煙は立っていない。誰かが通りすがりに消したのか、それともこのビルに用事のあった誰かが入館のきっかけでここに捨てたのか、女は知る由もない。興味もない。
 名探偵ならば、恐らくこの吸い殻一本で消した人物の足跡から人物像まで瞬く間に推理することだろう。だが、生憎女にはそんな特殊能力を持ち合わせている訳でもなく、そんなことに興味を抱くような性格でもなかった。ただ、ちらりと視界に映った光景がほんの一瞬記憶に残っただけ。そう、ほんの一瞬。
 顔を上げる頃には、もう記憶にも残らず興味の一片すら持っていなかった。
 そんなことより、女の目的は三階のとある店にのみ向けられていた。
 赤い傘を閉じ、丁寧に水を切った。振り下ろす仕草でまたハイヒールに雨水が振りかかるも、もうどうでもいいらしい。遅くなった仕事を終え、会社を出る頃は多少足元を気にしながら歩いていた。けれど、どう抗おうとも、歩き方を気にしてもこれだけの振りになにが出来る訳でもないと諦めたのだ。ただ、ハイヒールの中に入り込んだ雨水がストッキングを濡らし、湿気た感触が少し不快だった。足がこれだけ濡れてしまったのだから、今日は真っ直ぐ家に帰るかと躊躇するも、次いつ雨が降るかわからない。
 最近は雨の日が極端に少なかった。以前はっきりと雨だと認識できる天気の日は、三カ月ほど前だった。そう、女はこの日を三カ月も待ったのだ。
 ここで諦めたら、次に雨空に出会えるのはいつになることやら。
 世間一般では雨と聞くとうんざりしたものだろうが、女は毎日の天気予報をチェックし、明日は雨だと言う言葉をまだかまだかと待ち侘びていたものだった。もしかしたら、明日も雨かもしれない。だが、そんな不確かなことに賭けられるほどのんびりした性格ではない。
 そんな結果論に期待するくらいならば、今目の前にぶら下げられた現実を取る。そう決めて一番の気に入りの傘を手に取ったのだ。
 水を切った傘を丁寧に手でまとめ、ストラップを止めた。ビルの入口に敷かれている水切りのマットレスは、もう雨でぐっしょりと濡れていた。足を乗せると、お役御免とばかりにじゅっと水を含んだ嫌な音が靴底に響いた。水たまりは全く気にしなかった女も、流石にそのマットレスの感触は不快だったようで、タイトスカートの裾一杯まで足を開き、大股にそれを避け入館した。一歩目のハイヒールの足音がリノリウムの床に固く響いた。
 前回来たときは入口入ってすぐ目の前にあるエレベーターを使用したものだった。だが、今日は違うルートで目的階を目指そうと考えた。躊躇することなく、左側に備え付けられた階段へ進んだ。
 ビルは全体が薄暗かった。節電のためなのか、それともわざとなのか、女にはわからなかった。前回はこの雰囲気に気押され一度は帰ろうと思ったものだった。そう考える意思と裏腹に、身体が帰ることを拒んでいた。誰かに引き寄せられるように前へ前へと進まされるような錯覚を覚えたものだった。今回はその経験から、二回目。この薄暗さもデフォルトだと思えば、不気味さはあっても恐怖はなかった。そんなことよりも、あの店での経験をもう一度味わいたい、その感情が勝っていた。
 なにもかもがミステリアスな店だった。
 店の雰囲気や取り扱うメニュー、そしてたったひとりで店を切り盛りしているらしい店主であるバーテンダーの存在まで、全てがミステリアスだった。コンセプトからして、他の店では味わえない独特のものを持っていた。
 コンセプト……、そう、この店は雨の降る日しか営業しないのだ。営業状況を問い合わせようにも電話番号も、店を紹介するウェブサイトも存在しない。街の情報誌にすら一行たりとも掲載されたことはない。全ては、誰かからの伝聞のみでしか店の情報を得ることが出来ない。
 女もこの店を知ったのは、とあるバーで知り合った男性からのクチコミだった。
 雨の日だけしか営業していない変わったバーがあるんだ。
 そんな採算度外視の店など存在するものかと、冷やかし半分に初めて訪れたのが今から三カ月と少し前。噂だけを頼りに来店してから、女はこの店の虜となった。条件が限られ過ぎたせいなのか、それともメニューが一風変わっているせいなのか、もしくはあの正体のはっきりしない店主が魅力的過ぎたのか、事あるごとに女の意識は今から向かう店へと向けられたのだ。
 今から向かう店?
 そう言えば、店の名前も知らなかった。
 二階まで上った女の足が止まった。前回来店した際、店の看板があっただろうか。記憶を反芻しても、店の名前を知るヒントに覚えはなかった。看板も、そして店内で出されるコースターも白かった。もちろん、名刺など置いてあるはずもない。
 小さなことよ、と女は笑った。
 店の名を知って何があるのかと自嘲気味に笑う。店の名を知ったところで検索したって情報などヒットするはずもない、誰かに教えるにしても店の名前などなんの意味もない。雨の日のみに営業する変わったバーがあるの。ただそう言えばいいだけのこと。逆に店の名前などと言う小さなものに拘ったことによって、この店との関係が切れてしまうことを恐れていた。どこにも載せていないと言うことは店主自体も気にしていないのかもしれないし、もしかすると知られたくないものなのかもしれない。店主の素性を詮索することと同様に、いやそれ以上に、踏み込んではいけないタブーだった場合、店を閉めてしまうかもしれない。店の場所を変えられてしまわれようものならば二度と来ることが叶わなくなるだろう。それだけは嫌だった。
 馬鹿ね、逆に店の名前を知らないことがさらにミステリアスでいいじゃない、女はそう微笑むと再び足を進めた。しんと静まり返ったビルの中で、ハイヒールが固く響く。
 三階まで楽に到達した。この程度で息が切れるほど歳を取ってはいない。ただ少しこの湿気でうっすら汗が浮かんだ程度。最後の一段を、踏みしめるようにヒールを鳴らした。
 その店は、前回同様に存在感を放っていた。重厚で大きな木製のドアがそこにある。この薄暗いビルの雰囲気に溶け込もうとしながらも、オーラを隠しきれない有名俳優のようだと女はまた笑った。ドアのノブに手を伸ばしかけ、足を止めた。そして、改めてぐるりと見回してみる。やはり、看板らしきものはなかった。普通のバーなどでは客が間違わないよう、装飾したプレートが備え付けられているものだ。ここは、間違えるならそれでどうぞと言わんばかりになんの装飾も施されていなかった。逆に、考えようによっては知っている者のみでなければこの店へ入ることが出来ないのだ。そのことに考え至り、優越感に女の背中は泡を立てた。
 ひとつ深く息を吐き、冷たいノブへと手を伸ばした。が、ドアは固く閉ざされ、びくともしない。その状況に女は焦った。まだ外では雨が降っている。営業終了するはずがないと言う根拠のない自信に、冷や汗が流れた。何度か強く掴んだノブを押してみる。もしかして引くのかと思い直し、腕を引くもがたりとも言わないそれはドアの模様を描いた壁なのかと錯覚したほどだった。
「なんで」
 初めて女はここへきて声を出した。それだけ動揺が激しかったと言うことだろう。まさか店が開いていないなどとは思いもよらなかった。小雨程度であればそれも可能性としてあったかもしれない。だが、外は豪雨に近い激しい雨が降り続いている。天気予報では真夜中過ぎまでは確実に降り続けると言っていた。
 どうするかと女は迷った。ノブから手を離し、軽く握り拳を作りドアをノックした。初めは二回。そして、今度は三回。ひとの気配もなく、誰かが反応してくれる様子もない。折角三カ月待ったのだ。これで諦めて帰るなど、納得がいかない。
 もしかして、店主はなにか用事があって店を留守にしているだけなのかもしれない。諦めて帰ってしまい入れ替えに戻ってきたら、そう考えると場を立ち去る勇気が持てなかった。少し待ってみようか、その決心に青ざめた女の表情が明るくなった。
 さて、どこで待つかと辺りを見回した。このビルは一フロア一店舗と言う造りのようで、このフロア内に他の店はなかった。ベンチを置いてくれる気の利かせようもなかった。他の階にどんな店があるかも知らなかった。ただ、他の階に店があったとしてそこで時間を潰す気にはならなかった。なにより、店主が帰ってくると同時に入店したいのだ。時間を空けてしまったせいで、客がいないようなら今日はもう閉店だと判断されてしまうのも怖かった。それでもこの三階で帰りを待つことには、躊躇した。嫌味だと取られるのが嫌だったのだ。逡巡の末、女はビルの向かいの喫茶店で待つことにした。確か店の明かりが点いていた。あの店の窓際ででも見ていれば帰りに気付けるだろう。コーヒー一杯程度であれば、この店での飲食に影響もない。あからさまに待っていましたアピールをするより、店主の戻りのタイミングに合わせて偶然来店したように見せれば、印象は少なくともマイナスにはならないはず。素晴らしい発見をしたかのように女は大きく頷くと、踵を返し上って来た階段を下り始めた。
 この下りている途中に店主に会ったらどうしようか、女は探検家の面持ちで少し緊張気味に一歩一歩下った。幸いなのか、不幸なのか、二階に下りるまでに誰とも会うことはなかった。二階をぐるりとまわり、一階の階段へと向かう辺りでなにかの物音を聞いた。低く響く機械の音のように感じられた。しんと静まり返ったこの空間でないと気付けない程の小さな低い音だった。なんの音かと辺りを見回し、ふとエレベーターの音なのだと思い至った。背伸びの要領でエレベーターホールへと視線を流すと、上部に取り付けられている階数表示のランプが動いていた。誰かが乗っているようだ。入れ違いになるところだった、と下りて来た階段を再び上り始めた。
 走らず慌てず、出来る限り冷静を装い二階から三階へと足を進める。それでも少し早足だったのは、期待に胸躍らせてしまっていたせいかもしれない。上がりかけた息を整えつつ、ドアの前へと立った。相変わらずそこは誰の侵入も認めないとばかりに固く閉ざされている。しかし、この店の中には店主が存在しているはず。高鳴る胸を抑え、ノブを掴んだ。
 が、予想に反してびくともしなかった。落ち着き始めた鼓動が再び強く打った。そんなはずはない、声にならない声で呟いた。
「エレベーターが……、動いたはずなのに」
 そう言い、気付いた。なにもあのエレベーターはこの店専用のものではない。他の階にも店があるはず。そこの客なり関係者なりが使用した可能性も考慮に入れるべきだった。エレベーターが動き始めた音と女の位置関係から、短い距離で使用されたと思い込んでしまっただけなのかもしれない。ノブを掴んだ手を離し、女は名残惜しげにエレベーターへと向かった。今、箱がどの階にいるのか、階数表示を見上げてみるとどうやら一階にいるようだった。女がこのビルに入ったときにどこの階に箱がいるのかまでは確認しなかった。そして、エレベーターが動いた音は一回きりだった。
 一回だけ動いた音を聞き、そしてその箱は今、一階にいる。と言うことは、店主が一階から三階まで使用したのではなく、誰かが一階まで下りたと言うことを意味している。こんなものは名探偵でなくとも、容易に想像できた。女は深い溜息を漏らし、重い足取りで階段へと向かった。店主の帰りを引き続き待ちたい気持ちと、肩透かしを食らったショックからか、今日はもう帰ろうかと弱音を吐きたい気持ちが交差していた。なんだか疲れてしまった。
 それでもこの忌々しいエレベーターを使用する気にはならなかった。焦燥感を抱きつつも、もしかすると階段で下っている途中ででも店主に会えるかもしれない、そう微かな淡い期待はどうしてもまだ残っている。来るまでに響かせていたハイヒールの音はとうに消え去り、今はぺたぺたとやけくそ気味の足音が虚しくビル内に響いていた。三階から二階に下りようとするその瞬間、女の背後でなにか小さな音が聞こえた。それはひどく鋭く耳朶を叩いた。地面に針が落ちるくらいの小さな音であったが、女の耳は聞き逃さなかった。
 そう、それは解錠する音に似ていたのだから。
 階段を下りる足が止められ、勢いよく振り返った。重厚なドアが薄暗闇に紛れつつも、物々しい雰囲気を放っているその佇まいは相変わらずであっても、女の目にはなにか違って見えた。まさか、女はそう呟いた。
 恐る恐るドアへと近づき、ノブを掴んだ。いや、店主がここを通った様子はなかった。エレベーターホールへ首を伸ばし階数表示を確認するも、まだ箱は一階から動いていない。階段には自分自身がいた。ではどうやって店主は店へ帰ったのか。答えの見えないもやもやとした感覚が女を包んだ。けれど、大きく息を吐くと、もうその感覚は消え去っていた。たいした問題ではない。きっと関係者専用の裏口でもあるのだろう。こちらは来客専用なのかもしれない。であれば、気付かないうちに戻ってきても不思議ではない。外出中ならば鍵を閉めるのは当然で、戻ったタイミングで解錠するのも不思議ではない。
 そう半ば言い聞かせ、ノブを引いた。
 すると、それはあっさりと女の動きに従い大きく開かれた。視界の先には、このビルの廊下同様、いや、それ以上に薄暗い空間が広がっていた。前に見た景色だと女は安堵の息を漏らした。
「いらっしゃいませ」
 店の奥から声が聞こえた。あの声にも当然聞き覚えがある。ただ、解錠してからあの声の距離の位置までこの薄暗闇の中をどう引き返したのか、一瞬浮かんだ疑問は無視することにした。この店では細かいことを気にしていてはきりがない。ここは雰囲気を楽しむ場所。細かい疑問も全てミステリアスだと思ってしまえば、なんの不思議もないのだ。店主は暗闇に慣れているのかもしれないし、このアナログに見える造りも実は精巧な機械仕掛けなのかもしれない。手元のスイッチひとつ押せば解錠など容易な動作なのかもしれないのだ。それを敢えてミステリアスに魅せて、客を不思議がらせる演出をしているのかもしれない。それをひとつひとつ暴くなど、無粋にも程がある。
「いらっしゃいませ」
 店の奥からもう一度声がかけられた。女は引き寄せられるように、店の中へと足を進めた。
「もう、今日はお仕舞いですか?」
「いえ、まだ営業中です」
「雨が降っているから?」
「……そうですね」
 抑揚のない声と会話するのは、女にとって珍しいことだった。勤めている会社にこんな話し方をする同僚や上司など存在しない。まわりの友人たちも、正直に喜怒哀楽を声に含ませ会話を楽しむ。楽しいのかつまらないのか、怒っているのか悲しんでいるのか、全く判断できない話し方をするような人物はこの店でしか会うことはなかった。それでも不思議なことに、店主との会話は不快ではなかった。
「これもミステリアスのひとつなのね」
 ひとり納得で頷く声に、店主はなにも反応を示さなかった。無言のまま、その手元に明かりが灯る。大きめのキャンドルに火を点け、カウンターへ下ろした。
「どうぞ、お好きな席へ」
 六畳にも満たない縦長の狭い店内が、キャンドルの明かりにぼんやりと浮かび上がった。細長いカウンターが室内の真ん中に置かれ、それを挟んで左側にカウンターチェアが五脚並んでいた。カウンターを挟んで右側にひとの姿があった。声に導かれ、女は分厚く敷き詰められた絨毯の上を歩いた。廊下で響いていたハイヒールの靴音はこの店の中では一切聞こえない。
 女は迷うことなく五脚並んだスツールの真ん中を選んだ。腰を下ろすと、尻に違和感があった。随分柔らかい。まるで誰かが少し前まで腰を下ろしていたような、温度と弾力があった。
「私がここに来る前まで、来客が?」
 女はさり気なさを装いつつ、ハンドバッグを隣のスツールへ置いた。傘は脇のカウンターへと掛けた。手を放すと、不安定に傘が揺れた。無意識にそれを抑え、カウンターを挟んだ向かいの人物の答えを待った。
「いいえ」
 相変わらず声に抑揚がない。
「そう」
「なにか」
「いいえ、なんとなくそう思っただけよ。あなた、店を空けて外出していたようだし」
 キャンドルに浮かび上がる店主は、以前見た人物と同一人物のようだった。背丈もスタイルも、前回の記憶と一致していた。
「本日は営業開始から一歩もこの店を出ておりません」
「え?」
 ならばなぜドアが閉まっていたのか。女は疑問を投げかけようとして、それを飲み込んだ。店主の言葉を嘘だと暴いたところで、なにが変わると言うのだろうか。ここまで来たのなら、後はのんびりとカクテルを楽しもう。
「そう、私の勘違いだったみたい。ごめんなさい」
「いえ、お気遣いなく」
 キャンドルにほんのり照らされるその姿は、相変わらず顔が見えなかった。表情を読み取ることすら困難で、女はしげしげとその顔を覗き込んだ。流石にそれは不快なのか、店主はさりげない仕草でキャンドルの明りから距離を取った。
「ご注文はいかがいたしましょうか」
 バーテンダーの衣装が今日もよく似合っていた。ホットタオルを差し出す真っ白いシャツの袖は、糊が利いていた。それを受け取りつつ、女は言った。
「私、前にもこのお店に来たことがあるの。覚えているかしら」
「三カ月と少し前に一度」
 考える様子もなく答えるその記憶力に、女は驚いた。
「あ、そ、そう。そうよ、正解。よく覚えているのね」
「仕事柄、お客様のお顔を覚えるのは得意ですから。以前も同じ傘をお持ちでした」
「凄い記憶力ね。流石と言われた方が、褒め言葉なのかしら」
「ご自由に」
 ホットタオルで両手を揉み、無意識に女は腕をカウンターに下ろした。途端、右手の辺りにひやりとした感覚を覚えた。
「どうか」
 目の前の人物が、女の動揺を読み取ったか声を掛けた。
「どうか、なさいましたか」
 なんでもないわ、そう答える女の声が僅かに震えてしまった。確かに、自分より前に誰かがいた。そう確信した。
 右腕の下に感じる、丸く描かれたひやりとした感触。これはここに長い時間冷たい物が置かれていたなによりの証拠。そう、例えばカクテルグラス。
 少し前までいた客は、女と同じ椅子に座り、ここでカクテルを楽しんだのだ。しかし、それを店主はなぜか隠している。
 そうか、と女は自分自身で納得した。客一組なり、ひとりなりしかこの店に入ることが出来ないのだ。先客がいれば鍵を掛けて他の客が入れない空間を作り出す。そしてその客が帰り次第、次の客を迎え入れる。
 だから、女は先程店に入れなかったのだ。先客のために。その人物が退店したタイミングで、店は再び営業を始めたのだ。
 エレベーターを使用したのは、先客だったかと思えば全てが繋がる。どこにも説明のできない謎などなかったのだ。
「いえ」
 女は考え過ぎたと笑った。なんでもかんでもミステリアスに変換してしまうと、こうして謎が解けた時に呆気なさを感じる。やはり、謎は謎のままで残しておく方が楽しい、そう女は笑った。
「なんでもないわ。そう、注文ね」
「ご希望に合わせてお作りいたしますので、なんなりと」
「以前来たときに飲ませていただいたカクテル、なんて言ったかしら。……えっと」
「『テン・リトル・インディアン・ボーイズ』ですか」
「そう。あなた、客が頼んだメニューも覚えているのね、凄いとしかいいようがないわ」
「ありがとうございます」
「あのカクテル。とても美味しかったわ。甘くて、少し酸味があって、それでいてしつこくなくて。後味もさっぱりしていて、なにより見る角度に合わせて色が変わるなんて、この店でしか見たことがないもの」
「お褒めに預かりまして。当店自慢のカクテルでございます」
「ええ、同感だわ。今日もあれ、いただけるかしら」
 女のリクエストに、目の前の人物はゆっくりと頭を下げた。
「申し訳ございません」
「材料がないのかしら」
「いえ」
 バーテンダーの制服を身に纏った人物は、小さく首を振る。
「ひとりのお客様につき、カクテルは一種類一杯のみのご提供とさせていただいております」
「……そうなの」
「申し訳ございません。『テン・リトル・インディアン・ボーイズ』以外のカクテルでしたら、お好みに合わせてお作りいたします」
 そこで女は肘を突き、そっと口角を上げた。
「ひとり一種類、一杯までなのね。なら、私がこの店へ百回通ったとしたら、百種類のカクテルを飲ませてくれるってこと?」
「はい」
「千回通っても、そんな強がり言えるかしら」
 女はなぜか意地悪を言いたくなった。少しこのバーテンダーの困った顔が見てみたいと思ったことは正直な気持ちだ。
 そして、どう答えを返すのか、その反応も楽しみだった。
「ご安心ください」
 女の心を察したか、抑揚のなかったはずの声に笑いが含まれたように発せられた。
「当店のカクテルは、それ以上のレシピがございますので。お気に召すままどうぞご来店ください」
「負けたわ。いいわ、その自信とても素敵。では、今回のお勧めをいただこうかしら」
「なにかリクエストはございますか?」
「そうね。前回とても美味しかったから、同じように甘くて、……少し甘酸っぱい感じがいいかしら」
「畏まりました」
 うやうやしく頭を下げると、バーテンダーはシェイカーのボディを手に取った。氷と水を入れ、軽くステアし水を切った。その一連の動作は寸分の狂いもなく、途切れることのない動きはまるで芸術品を見ているかのようだった。
 女へ背を向けると、天井まで届く大きな棚へと向き合った。幾つかの酒瓶を手に取り、再びこちらへ向きを変える。後ろでひとつにまとめた髪は、崩れることなくそのスタイルに似合っていた。
 女は一連の動きを凝視し、何度か小さく頷いた。やはり、このバーテンダーは男性だと薄暗闇の中で確信する。低過ぎず、かと言って高過ぎず、発する単語によっては女性の声のようで、しかし、基本は男性の声のようにも聞こえる、不思議な人物だった。視界のはっきりしない中で、シルエットとその声だけで性別を判断するのは至難の技だった。それでも、しっかり観察するとこの店の店主は男性なのだと答えを出した。
 ひとつ謎を解いた名探偵の面持ちで、女は満足だった。謎は謎のままが面白いとはわかっているが、全てが謎のままではつまらない。なにかひとつだけでも秘密を持って帰りたい、それは止めようのない衝動と願望だった。
 肘を突いた手に顎を乗せた姿勢で、女はバーテンダーの手元を凝視した。そんな視線にもものともせず、カクテルを作る準備は黙々と進められている。瓶を傾け、メジャーカップに注いではシェーカーへと移した。動きは全て洗練され、指先ひとつにも油断がなかった。流れる動きのまま、シェーカーにストレーナー、トップの順に被せると、それを両手に持ちシェイクした。
 女は幾つものバーを知っていた。
 熟練の腕から初々しいルーキーの腕まで、何人ものバーテンダーを見てきた自信があった。その中でも、この今、目の前でシェイクをしている彼の腕は誰にも劣らないと、感動さえ覚えた。佇まいから、物腰、そしてその手指の動き、そしてカクテルを生み出す能力。どれを取っても、どこの店にも負ける要素がないとさえ思わせた。
「出場してみたら面白いでしょうに」
「どちらにでしょうか」
「あなたもバーテンダーなら、知っているでしょう? ワールドクラスって言う、世界最大級のバーテンダーのコンペティション」
「興味がありませんので」
「そうなの? バーテンダーなら、誰もが夢見る大会じゃないのかしら」
 彼は答えなかった。シェイカーのトップを開け、よく冷えたグラスを取り出し注いだ。動揺する素振りも見せない手つきで、そのグラスを女の前に差し出す。指先は全く震えていなかった。
「あなたなら、優勝間違いないと思うのだけれど」
「私は、この店でこうしてお客様とお話しすることだけがなによりの楽しみですので。私の作ったカクテルを、美味しいと言ってくださることだけがなににも勝るお褒めの言葉です。優勝トロフィーよりも価値があります」
「……そうね、このお店は知っているひとだけが来ることのできる、秘密の場所ですもの。有名になってしまって入店を制限されたら困ってしまうものね」
 女が小さな声で謝罪をすると、彼はそっと首を振った。
「今回もとても美味しそう。なんて名のカクテルなのかしら」
「こちらは、『マザー・グース』と言う種類の中で、『ヒー・ラブズ・ミー』と言います」
「『あの人が私を愛してるって』ね。マザー・グースには恐ろしい歌や悲しい歌が多いけれど、そんなセンチメンタルな歌もあるのね。聞いたことがないわ」
 女はグラスへ視線を落とした。相変わらず不思議なカクテルだった。右から見た色と、左から見た色、そして正面から見た色、どれもが違って見えた。
「He loves me,(あの人が私を愛してるって)
He don’t!(そんなこと迷惑よ)
He’ll have me,(あの人が私を欲しがってるって)
He don’t!(そんなことさせないわ)
He would if he could,(やれるものならやってみたら)
But he can’t,(できっこないし)
So he don’t!(させもしないわ)
(Mother Goose:He loves me. より引用)
……と言う歌でございます」
 バーテンダーの淡々とした歌声が店内に響いた。それは今まで以上に抑揚がなかった。そのせいか、強がる女心を歌っているはずがどこか寂しげに聞こえた。
「男の子に思いを寄せられた、女の子の歌ってところかしら。随分強がっているようだけれど、それは本心なのかしらね」
「さあ、どうでしょうか」
 バーテンダーは、流れる動きでカウンターの端に置かれたレコードプレーヤーを回し、針を置いた。年季の入ったプレーヤーはしばらくの後、懐かしさを感じさせる音色を流し始めた。最近のステレオには出すことのできない、柔らかい音がこの店に似合っていた。デジタルの音とは違う、ノスタルジー。
「このカクテルのどの辺りがその歌にマッチしているのかしら。なにか由来でも? 聞いても構わない?」
「喜んで」
 カウンターの上に置かれたキャンドルの炎がゆっくり揺れた。微かな明かりに照らされたカクテルも、その動きに合わせて色味を変える。
 女の指先がグラスを持ち上げ、目の高さまで掲げる。
 そこへ、バーテンダーが手を伸ばし、グラスの縁に果実を刺し置き、口を開いた。


「…ようこそ、『東京二十四区』へ」